推し文化研究批評

批評というよりは推し文化研究についての感想です

趣味の多くが「推し」という言葉に包含されただけで決して新しい享受者のあり方ではないのではないか

今回言いたいことはタイトルの通りである。特に何かの資料を下敷きに批判しているわけではなく、ふと思いついたので。

「推し文化」について新しい主体性のあり方であるとか、新しい楽しみ方のように言われることが少なくないが、「推し」という概念のアイドル文化への適用と、それぞれの言葉が包含する意味の拡張が行われたために新鮮に映るだけで、それぞれの個別具体なあり方は随分前からあったと思っている。「推し文化」研究への違和感の一つとして、楽しみ方は人それぞれなのでそこに傾向を見出して分析することは難しいのではないか、何か一つの論に帰結した途端に「そうじゃない」と感じてしまうというものがある。似たような楽しみ方をしている人はもちろんたくさんいるであろうから、ある程度分類はできるかもしれないが、「推し文化における〇〇のあり方」といった仮説の立証ができたとするならば、それはデータの取り方が偏っているのではないか。そうでない楽しみ方の人もいっぱいいるし寧ろそうでない人の方が多いよねと思ってしまう。

 

例えば宇佐美りんの『推し、燃ゆ』の主人公においては、応援している推しと、その応援する行為自体がかなり日常生活に影響を与えている。でもそれは新しい若者のあり方などではなく、その様が文学的に素敵な文章で表象されているから新鮮に映るだけではないか。趣味が日常生活に影響を与えてしまって、例えば日常生活や家事、学校に通うといったことがままならなくなる、自分自身よりも趣味の方に関心が向いていて、意思決定にはいちいち趣味の内容と照らし合わせてしまうということは往々にして今までもあったことではないのか。この場合、特にその対象が同じ時間に同じ地球上で生きている人間であるからより生々しいものに見えるし、生きているものであるからこそ期待してしまうことや自分とその対象との関係について考えてしまうことはあると思う。例えばAKB48の総選挙では、自分の消費行動が直接推しのグループにおける位置に影響を与え得るわけであるから、なおさらそこには生々しさが伴う。この点には多少の面白さがあるが、若者とか最近の文化の特徴などというのはやめて欲しい、多分最近に限ったことではないので。

趣味に一喜一憂してしまうことも往々にしてある、というか趣味とは概してそのようなものではないか。

例えば「今日担任の先生機嫌悪くない?」『巨人が昨日負けたんだよ』「うわまじか、下手なことしないようにしよ」というような会話の場面を経験したことがある人もいるだろうし、この場面と状況は想像に難くないだろう。自分が応援している球団が負けると機嫌が悪くなる、逆に勝つと機嫌がよくなる人は随分前からいた。趣味や好きなものとはそのようなものだろう。それが「推し球団」、「推し選手」など「推し」という言葉によって表されると途端に「推し」に関する云々に還元され、その範囲で語られる。