舞台俳優を”推す”という違和感
いい加減文献を批判しろと自分でも思っているのだが、2月には絶対書きます...。
2022年1月19日放送の「あさイチ」(NHK)で、「舞台俳優推し」という特集がなされていた。この番組では何度か推し活について取り上げられていると思うが、あまり見たことがなかった。推し活をしている人に焦点が当たることが、それほど珍しくなくなってきていて、そのことに違和感があるからだ*1。
しかし今回は、舞台は好きだし、芳雄さんと花總さんのお歌は聴きたいし、Twitterで回ってきてアンケートに答えた記憶があったので、見た。
いわゆる2.5次元俳優であるとか、若手の俳優とかならわかるが、ある程度年齢を重ねた俳優を「推す」という言葉に違和感を持つ人は私以外にいないのだろうか...。「推し活をしている人」というよりは「ファン」の方がしっくり来る。
「推し」という言葉に対して、ファンである主体が、ある対象を推すことによってその対象が人気になるとか、いくつかの面で「ケアする」というイメージがある。*2
ある程度年齢も経験も重ねている俳優を「ケアする」というのは上から目線なようで失礼な気がするし、別に推しているのではなく勝手に好きで見ている、俳優が良いものを見せてくれるから観客になっているだけではないか。
番組内で取り上げられていた大衆演劇の俳優を推している人は、確かに推し活であるように感じたが、明日海りおさんのファンの家族はファンだろうと思ってしまった。かなり熱心なファンではあるが、推しなのだろうか、と。
宝塚界隈で今どれほど使われている言葉なのかはわからないが、「ご贔屓」という言葉はどこに行ったのか。それぞれの界隈のそれぞれの”推し”の呼び方がその界隈のファンのあり方を表しているような気がして良いと思うのだが。
これはこれから検討したいことなのだが、これほど「推し」という言葉が普及し、普通に、かつ肯定的に使われるようになったのはジャニヲタがこの言葉を普通に使うようになったあたりがターニングポイントなのではないかと考えている。ジャニヲタは好きなタレントのことは「自担」と呼べばいいのではないか。その言葉が気に入らない人ももちろんいるだろうし、それは人それぞれでいいのだが。しかしながらこれは自分が慣れ親しんできた時期のジャニヲタの文化だからそう感じるのかもしれない。
兎にも角にも、舞台俳優を「推す」というのは変ではないか。この記事はもう少しきちんと言語化して更新しようと思う。